2009年1月11日 (日)

100枚プリント第8集「ことばのクロスワード」について

2008年秋に発売したプリント集です。身近な事物や事柄についての定義を学習する教材です。「定義」という言葉を辞書で引くと、「物事の意味・内容を他のものと区別できるように、言葉で明確に限定すること」(大辞泉)とあります。たとえば、プリントの問題にもある「えんぴつ」であれば、まず筆頭に「筆記用具の一つ」と大括りされ、その後に、「木の軸に黒鉛の粉末と粘土を混ぜ、高熱で焼き固めた芯を入れたもの」という説明が補足されます。「ことばのクロスワード」での、「えんぴつ」の説明(定義)は、「字を書くもの」ですから、辞書の第一義の説明にほぼ対応していると思います。しかし、もちろん、この説明だけでは、鉛筆とは同定できないため、文字数や、縦軸に完成する単語との相関で、「えんぴつ」と決定するようになっています。もし、ヒントクイズのような遊びの中で、「字を書くものだよ」というヒントを出し、相手が「ボールペン」と答えたら、出題者は、どうするでしょうか。たぶん、筆記具というカテゴリーまでは、解答者が辿りついていることを洞察して、「ボールペン」と「えんぴつ」を峻別し、さらに、より「えんぴつ」に特定した特徴を、追加するはずです。「芯がおれるもの」「削って使うもの」などの第2ヒントで、解答者は、「えんぴつ」という答えにほぼ迷いなく、辿りつくことができるでしょう。◆相手に何かを伝える場合、必ずしも、最初から、過不足のない最良な説明(表現)がなされるわけではありません。対話者同士が歩み寄り、相互交渉の中で、理解が形成されます。情報伝達は、よく、A→Bという図式で示されますが、実際は、A-Bという関係の中間に、存在するものだと言えます。今回の教材は、相互交渉による情報の同定は、行うものではありません。しかし、いくつかの関連情報から内容を特定する、という思考作業を通して、「プロセスを経た理解の形成」を体験してもらえればと考えています。

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2008年3月20日 (木)

おはなし読解ワーク:上級編(10):「北海岸行きの電車③」

「北海岸行きの電車」の語りの形式についてお話したいと思います。

最近、よく見るテレビ番組に、NHKの「世界ふれあい街歩き」という番組があります。世界各国の街を紹介する紀行物なのですが、この番組には非常にユニークな点があります。それは、その町を歩く人の視点で映像が流れ、語りが入れられている、という点です。実際に、映写機をかついだカメラマンが町を歩き回り、「歩く人」の視点で街が紹介されていきます。語りは、毎回、異なる俳優によって、後からスタジオで入れられているそうですが、極力、実際に自分が歩きまわっているような感覚で、セリフを決めているとのことです。

 「北海岸行きの電車」も、一人の若い車掌の独白によって、物語が進んで行きます。ひとりの人物の感覚や感情を通しての世界ですから、必然的に省略も多くなり、わかりにくい部分も出てきます。(車掌の名前を問う設問などは、かなり難しいと思います) しかし、読む人が、徐々に、この語り手と一体化し、気持ちの流れを共に感じてもらうことができたなら、と思います。移し身の感覚、それが、「共感」を形成するのではないか、と考えています。物語や映画、演劇、音楽・・・実生活だけでなく、そのような架空世界の中で、たくさんの共感を育むことは、とても大切なことだと思います。

 テレビ番組の「世界ふれあい街歩き」は、一日の短い旅が終り、日が暮れて行くシーンで、エンディングのテーマ音楽が流れ出します。不思議なことに、本当に、自分がその街を歩き回ったかのような、疲れと寂寥感と、そして、行ったこともない、その街に対する愛着が、生まれていることに気がつきます。あるヨーロッパの街の回で、語りを担当した人が、ずっと行ってみたいと思っていたその街に、もう行かなくてもいい気持になった、と感想を洩らしていたそうです。

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2008年1月26日 (土)

おはなし読解ワーク:上級編(9):「北海岸行きの電車②」

 物語中に登場する鉄道関係の用語のいくつかについて説明します。 

【指差確認】第3話で、「出発進行」という声とともに車掌が行います。この「出発進行」というのは、運転手に向けての発車の掛け声ではなく、駅の出発信号機が進行(青)を示していることを、声に出して確認しているのだそうです。 

【警報機のない踏切】第4話で、電車は警報機のない踏切を通過します。踏切には、かつては4種類あったそうです。一日中踏切番がいるのが第1種、自動警報機もなく「ふみきりちゅうい」の札だけが立っているのが第4種。この物語の中の踏切は、警報機もない小さなものなので、第4種ということになります。

 【タブレット交換】第5話の穂風駅で、駅長さんと車掌との間で交わされるのが、タブレットの交換です。タブレットは通票とよばれるもので、だいたい直径10cm程度の金属の輪っかです。これは、単線の線路での電車の衝突を防ぐための、通票閉塞という安全システムのために使用されたものでした。タブレットは、その区間、他の電車が入ってこないようにする通票閉塞機を操作する鍵なのだそうです。自分の記憶でも、そう遠くない過去に、駅員さんと乗務員の人が、大きなリングを交換しているのを見た記憶があります。リングに取り付けられていた袋の中に、きっと丸いタブレットが入っていたのでしょう。タブレット自体を見た記憶はありません。 

【シグナルの腕木】 第6話で、電車はシグナルの腕木が下がっているのを確認しながら、進行して行きます。この腕木とは、路線の各所に配置されている腕木信号機のことで、腕木が真横になっているときは停止、斜め下に下がっているときは、進行を合図します。宮沢賢治の童話「シグナルとシグナレス」では、恋する女性のために、“この腕木をずっと下げないでいてみせます”と情熱的にアプローチするシグナルが登場します。ただ、最近は、多くの路線で車内信号システムが整備されて、このような線路端の信号機は、非常に少なくなってしまっているようです。  

【青い乗車券】 最後の第10話で、終着駅でただ一人、車内に残った少年が取り出すのが、青い乗車券です。少年は、遠い場所に旅立ってしまう友だちとの約束で、いっしょに駅を降りず、一人でまた、始発駅まで戻るつもりだったと思われます。ということは、往復乗車券ということになるのかもしれません。往復乗車券がかつて青色だった、というようなことはなく、まったくの創作ですが、乗車券一般については、昭和の初期まで、等級により色分けされていたそうです。1等は白か黄、2等は青、3等は赤で、2等というのは、いまでいうグリーン車のようなものだそうで、青色切符は、高級チケットだったようです。宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」では、ほんとうにいなくなってしまうカムパネルラの方は、ありふれた「小さな鼠色の切符」を出すのですが、結局、あとに残されることになるジョバンニの切符は、「四つに折ったはがきぐらいの大きさの緑色の紙」でした。旅を続けないジョバンニの方が、立派な切符を持っている、というのが象徴的です。偶然ではありますが、ワークの物語でも、旅立つことのない少年だけが、車掌に切符を示すことになりました。

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2008年1月21日 (月)

おはなし読解ワーク:上級編(8):「北海岸行きの電車①」

おはなし読解ワークの最終話「北海岸行きの電車」についてです。このお話は、ローカル線の始発駅から終着駅までの車内の出来事が、一人の若い車掌の視点を通して語られる、という設定になっています。前回まで紹介させていただいた「リョウへの手紙」も、一人称の語りでしたが、あくまで読み手を想定した手紙文でした。それとの比較でいえば、この物語の展開は、より内言に近い「独白」で構成されています。上級編の締めくくりとして、日常、子どもたちがあまり触れることのない、独白体(?)の物語を作成しました。(しかし、最近は、この雑記集のようなブログで、独白が以前より、身近なものになっているかもしれません。)

けれど、このお話を作るに到った最大の動機は、何といっても、鉄道にあります。指導室に訪れる子どもたちには、鉄道マニアがとても多く、みな大人以上の知識を持っています。なぜ、鉄道好きが多いのかは、また別の機会に考えるとして、鉄道を舞台にしたお話であれば、多少内容が難しくても、読みすすめてくれるのではないか、という非常に打算的な意図から考え出した、というのが率直なところです。しかし、個人的には、鉄道ファンというわけではないため、いくつかの書籍などで勉強(?)して描いた部分があります。もしかしたら、そのような個所は、専門的な知識のある方からは、???というところもあるかもしれませんが、物語中に登場する、いくつかの専門用語について、ご説明したいと思います

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2008年1月20日 (日)

おはなし読解ワーク:上級編(7):「リョウへの手紙について③」

「リョウへの手紙」のもう一つのテーマは手紙です。手紙文という特殊な文書形態に触れる機会を作りたいと考えました。手紙は、一通の文面だけを見れば、相手からの返答や相槌のない、一方的な一人称の語りです。しかし、文通のようにやりとりされている手紙は、手紙の中に、もうひとつの、すなわち相手からの手紙の内容が、内包されています。直接、記されていない内容を、文面から推測する、ということを、比較的高度な読みの学習として設定しました。  手紙形式による文学作品として有名なものに、ドストエフスキーの「貧しき人々」があります。この小説では、主人公と文通相手の双方の手紙が交互に、提示される形式が採られています。とても悲しく切ない物語で、以前、北杜夫さんが、何度読んでも、途中で涙してしまう、と書かれていました。手紙文の特質は、何よりも、それを宛てた人に対する情感に、あるような気もします。これも、子どもにとっては難しい事柄かもしれませんが、何となく、でも、そのようなものを感じ取ってもらえればと、思います。

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2008年1月19日 (土)

おはなし読解ワーク:上級編(6):「リョウへの手紙」について②

 昨夏、所用で山陰を訪れた際、車で奥出雲まで行きました。目的のひとつは、その地方に多く設置されている製鉄に関する資料館や史跡を見学するためです。古代から江戸時代にかけて、出雲やその周辺の地域は、国内有数の鉄生産地でした。それは、現代のような鉄鉱石を原料とした製鉄ではなく、砂鉄を原料とする「たたら」と呼ばれる、産業でした。

 この「たたら製鉄」については、最近では、宮崎駿監督のアニメ映画「もののけ姫」の中で描かれていたことを、ご記憶の方もいらっしゃるかもしれません。(宮崎監督は、その後の「ハウルの動く城」でも、物語の重要なモチーフとして鉄を登場させており、この産業について深い関心を寄せられていることがわかります。)  明治期以降、砂鉄による「たたら」は、外国産の鉄鉱石を原料とする近代製鉄に取って代られますが、どちらにも共通していることは、鉄生産のために膨大な森林資源が消費される、という点です。

 司馬遼太郎さんの「街道を行く~砂鉄の道~」では、「鉄二千貫に木炭四千貫」が要る、と記されています。木炭とは、すなわち、鉄の入った石を焼くための燃料であり、森を伐採して集められた樹木です。ヨーロッパや中国・韓国などでは、この製鉄のための伐採により、多くの地域で森は消え去り、荒涼とした岩山がどこまでも続く風景となってしまいました。  

 鉄という鉱物は、「リョウ」の物語でも語られているように、いまの私たちを育ててくれた地球からの賜物です。しかし、一方で、それは自然破壊を推し進める大きな触媒になってしまいました。ワークを読む子どもの多くには、難しいテーマかもしれませんが、少しでも、人と産業と自然の関係というものに触れてほしく、「鉄」を物語のテーマのひとつとしました。

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2007年12月26日 (水)

おはなし読解ワーク:上級編(5):「リョウへの手紙」について①

 「おはなし読解ワーク:上級編」中の第6話、『リョウへの手紙』について、少し、ご説明したいと思います。この物語は、父親から息子に宛てられた手紙、という形式を採っています。リョウという息子からの手紙の内容は、紹介されておらず、父親の手紙の文面から、息子の返信内容を推測する、ということが、読解の課題のひとつとして計画されています。

 手紙文の文章形式についても、いろいろと話題がありますが、ここでは、物語のテーマである、「製鉄」のことについて、お話したいと思います。この手紙の書き手である父親は、鉱山技師であり、製鉄を中心産業とする北の国の町に、単身で赴任している、というのがお話の設定になっています。製鉄をテーマとした理由は、それが、人間の暮らしと極めて密接な関わりを持つとともに、自然環境との共生、が長く問題とされてきたものだからです。

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2007年12月18日 (火)

おはなし読解ワーク:上級編(4):「フェリーのりんご」について③

このお話を教材にしているときに、ときどき、「キツネって、何才ぐらいまで生きるものなんですか?」と、お母さんから、ときには子ども本人から、たずねられることがあります。人間の子どもが、おばあさんになるくらいの長い時間(少なく見積もっても40~50年くらいでしょうかが流れても、なぜか、まだキツネのフェリーは生きている… キツネの寿命は、だいたい7~8年ぐらい、野生だと3~4年ぐらいだそうです。(思いのほか短くて、何だか胸をつかれる思いがします) 

リンゴの木といっしょに時を過ごして行くフェリーは、もちろん現実的な存在ではありません。 たとえば「くまのプーさん」に登場する、プーさんもティガーもピグレットも歳を取りません。ただ、時折、空想の中でその森を訪れるクリストファー・ロビンだけが、歳を取って行きます。そうして、ある日、別れの日が来ます。「ぼく、何かしなくちゃならなくなっちゃったんだよ」というロビンに、どうして何かしなくちゃいけないの、とプーさんが尋ねます。 現実の人間が、ファンタジーの住人と関わろうとするときには、ファンタジーの世界だけが時計が止まっている、というのが、ある種の約束事であるようです。「くまのプーさん」しかり、「ピーターパン」しかり。最近では、ティム・バートン監督の「シザーハンド」に出てくるハサミ男など、その一人です。(詳しくは映画をごらんください。) 一方、物語が、ファンタジーの中だけで繰り広げられる物語では、時計が動いていることが多く、「桃太郎」や「一寸法師」は、りっぱに成長し、「シンデレラ」は、めでたく王子様と結ばれます。 「フェリー」の話についていえば、異種交流譚のようなものですから、歳を取らなくてもいいような気もしたのですが、リンゴ並木、という、確かなものが後に残された以上、やはり、時計を回さなければいけないのではないかと思いました。そこで、双方の世界の顔を立てて、稀に見る長生き、という設定にしたような次第です。 もしかしたら、フェリーは、こぼれ落ちたリンゴを拾ってあげず、ただ木陰から女の子を眺めていただけであれば、永遠に歳を取らない存在で、いられたのかもしれません。

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2007年12月15日 (土)

おはなし読解ワーク:上級編(3):「フェリーのりんご」について②

フェリーの育てた「りんご」は、栽培に非常に手間がかかる果樹のようです。ここから先は、農業試験場の職員の方や本などから得た知識の受け売りですが、まず、現在、商業用に栽培されているりんごで、実性(種)で育てられたものは、ひとつもない、ということです。  りんごは、生った実からとれた種子を地面に蒔いて育てても、ひとつとして同じりんごにはならないのだそうです。これは自家不和合性と呼ばれる種としての特性で、同じ品種の実を採りたいのであれば、他の品種(例えば、「ふじ」なら「つがる」と、と言うように)と異種交配させなければなりません。そのため実際の栽培は、台木への接ぎ木栽培で行われています。 フェリーの並木作りも、現実的には、そのように描かれるべきなのかもしれませんが、接ぎ木という栽培方法は、子どもにとって馴染みにく、種を一つづつ埋めて育て行く、という設定にしました。ずいぶん前に「ふぞろいな林檎たち」という人気ドラマがありましたが、フェリーの作った並木道も、きっと、「ふぞろいな林檎の木たち」であったことと思います。でも、収穫作業のために矮木化されたりしていないので、きっと、旅人に日陰を提供できる立派な木では、あったと思います。

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2007年12月13日 (木)

おはなし読解ワーク:上級編(2):「フェリーのりんご」について①

 第7話に「フェリーのりんご」というお話があります。この物語の内容について、少しお話ししたいと思います。これは野原に続く道に、りんご並木を作ろうとするキツネのお話です。このお話を作るきっかけとなったのは、富山和子さんという方の書かれた「道は生きている」(講談社青い鳥文庫)という本です。評論家である富山さんが、自然と社会との関わりを、子どものためにやさしく解説した本ですが、「森は生きている」「川は生きている」と合わせて3部作になっています。

 この「道は生きている」の中で、とても心魅かれた箇所がありました。それは、昔、日本の街道には果樹が植えられていた、というところです。昔、といっても、奈良時代ほどにまで遡る遥かな時代のことですが、その頃は、国の施策として、街道沿いに、果樹並木が作られていた(もしくは作ろうとした)らしいのです。なぜ、「果樹」であったか。その理由は「フェリー」の物語の中でも触れられているように、長く旅を続ける人たちに、食物を提供するためでした。「道(み)路(ち)は百姓(おおみたから)の来去絶えず。樹は其の傍らにあって疲乏の息を足らし、夏は即ち蔭を就け熱を避け、飢えたるときは子を摘み之を喰らう。」と759年発布の太政官符にあります。 それは、神話的豊穣さに溢れた記述で、読後もずっと心の中に残るものでした。

 「フェリーのりんご」というお話を作るにあたって、フェリーが精魂を傾ける並木を、果樹にしよう、と考えたのはそのためです。物語の中で、フェリーは遥かに続くりんご並木を育て上げますが、では、実際の、日本の果樹並木は、どうなったのでしょうか。今日、果樹並木が残っている道は、ごく少なくなっています。(※札幌市内のりんご並木は健在なようです) ましてや、そこを歩く人々が自由に果樹を食べてもいい、などという道は日本中どこをさがしてもないでしょう。(お金を払えば食べられる果物狩りは、たくさんありますが…) 果樹並木を作ろう、という記載は、確かに文献の中に存在します。でも、きっとそれは、あまり現実化しなかったと思われます。果樹の管理・維持が大変だった(比較的育てやすいカキやナシなどが植えられていたそうですが)、実った果実を旅行く人が公平に配分するというのは、やはり現実的に難しかった、国自体が乱れていった… さまざまな理由がきっとあったと思われます。それらの理由の中で、今回の物語ともっとも関係するのは、果樹の管理・栽培の問題です。

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